並河靖之の七宝焼き作品(皿・壺)の変遷・二人のナミカワ
並河靖之は、中国の七宝焼きをもとに第一号となる作品を完成させたことがきっかけで、七宝家としての道を歩み始めます。
並河の七宝焼きは、龍や鳳凰をモチーフとしていた中国よりの作風から、さまざまな人との出会いや独自の開発によって、大きく変化していきます。同じ明治時代に活躍した濤川惣助とともに「二人のナミカワ」と呼ばれ、国内外を問わず博覧会に出品した壺や花瓶などの作品は、高い評価を獲得しています。これまでに、皿や香水瓶・香炉などさまざまな作品を世に送り出している並河靖之。
こちらでは、その作風の変化と、明治時代を代表する二人のナミカワについてご紹介いたします。
並河靖之の七宝焼き作品の変化
明治時代を代表する七宝焼きの名工、並河靖之は中原哲泉らとともに有線七宝を極めました。有線七宝とは、金属の胎(ボディ)に文様の輪郭線として金や銀の線をテープ状に貼りつけ、線の間に釉薬をさして焼成・研磨を繰り返す技法のことです。
パリやシカゴ、ロンドン、バルセロナの博覧会や内国勧業博覧会に出品した壺や花瓶などの作品は、金賞を含む多数の賞を受賞しており、国内外を問わず高い評価を受けています。並河の七宝焼きは、京都舎密局におけるドイツ人科学者のワグネルとの出会いや、自ら開発した黒色透明釉薬などによって作風が変化していきます。
1873~1878年 初期の作品
並河の初期の壺には、明治初期の京七宝の特徴である渦巻などの文様が全面に施されていました。明治10年ごろには、京都舎密局でのゴットフリート・ワグネルとの出会いをきっかけに並河の七宝焼きの作風が大きく変化していきます。
ワグネルは破格の給料で京都府知事に雇われ、陶磁器や七宝焼き、ガラスの製法に関する講義や内国勧業博覧会の指導全般を行っていました。
1878~1895年 第二期の作品
ワグネルは「京都の七宝焼きは、世界の博覧会では通用しない」という厳しい評価のうえで指導を行っていました。このころの並河の作品は、公家文化を反映した龍や鳳凰、花や鳥などの伝統的な図柄を、細かい巻軸模様で囲むような表現を多く取り入れていました。壺の周りや足周りに複雑な縁取りを施しており、並河家の家紋だった蝶のモチーフも多くなっていきます。
1895~1903年 第三期の作品
第三期になり、独自の研究で、すで開発されていた、「並河の黒」と呼ばれる漆黒の透明釉薬を背景に使った、作品が増えていきます。壺や花瓶の背景を黒に染めることで図案の色彩が際立ち、グラデーションや色彩豊かな表現が可能になりました。
透明感のある黒を表現することができたのは並河靖之だけだといわれています。
過去の作品に取り入れていた巻軸模様は少なくなり、蝶や草花の図柄が大きく繊細に描かれるようになりました。そして並河は国内・海外のさまざまな博覧会で賞を獲得していくのです。
1903~1923年 晩期の作品
晩年の並河の七宝焼きは、壺や皿の背景に緑色や白色など、黒色以外の色も使うようになり、最盛期に比べると施す線の量が少なくなっていきます。
墨で描いたようなぼかしや植線によって、水墨画のような表現も見受けられるようになります。1900年代には、他の七宝家は透胎七宝や省胎七宝など、有線七宝以外のこれまでに無かった技法に関心を示しますが、並河は引退するまで有線七宝を極めることにこだわり続けました。
さまざまな影響や独自の研究を経て、有線七宝を追求し続けた並河の作品は、多様な色彩と深く透き通った艶が特徴です。
並河靖之・濤川惣助「二人のナミカワ」
独自の研究で黒色透明釉薬を開発した並河靖之は、綿密な植線と優れた色彩感覚で有線七宝を極めました。濤川惣助は同時期に、無線七宝というガラス釉を埋め、境界を引いた線を取って焼き付ける技法を確立しました。無線七宝は隣同士の色が混ざり合うことで、柔らかい風合いを表現できることが特徴です。
同じ時期に並河靖之は京都を中心に、濤川惣助は東京を中心に活動したことから「西の並河」「東の濤川」と呼ばれ、「二人のナミカワ」と称されていました。二人とも日本の伝統工芸の技術を帝室(皇室)の保護のもと継承・発展させることを目的として制定された、最高級の栄誉である帝室技芸員に認定されています。
背景の黒に、鮮やかな色彩のグラデーションをはっきり表現する並河靖之と、オリジナルの技法で濃淡やぼかしなどの筆で描いたような、柔らかい表現を得意とする濤川惣助。お互いを意識し合うライバルのような存在でしたが、どちらも明治時代を代表する名工として、日本の七宝焼きの価値を高めた功労者です。