島津義弘とは?戦国武将が生んだ薩摩焼の礎

島津義弘(しまづ よしひろ)は、1535年に生まれ1619年に没した戦国時代の薩摩国の武将です。数々の合戦で武名を轟かせ「鬼島津(おにしまづ)」の異名をとった猛将として知られます。
一方で、義弘は、実は薩摩焼(さつまやき)という伝統工芸の始まりにも深く関わっています。16世紀末の朝鮮出兵から帰国する際、彼は約80名もの朝鮮人陶工を薩摩に連れ帰りました。
これにより薩摩焼の基礎が築かれ、武将でありながら文化の発展にも寄与した人物として、その名が歴史に刻まれています。
本記事では、義弘の生涯や武将としての活躍、文化人としての側面を通じて、薩摩焼誕生の背景に迫ります。なお、薩摩焼とは何か詳しく知りたい方は、下記の記事もあわせてご覧ください。

島津義弘とは
島津家17代目当主島津義弘は戦国武将としての一面もありながら、文化人としての両面の顔を持っています。ここでは島津義弘の持つ2つの顔について紹介していきます。
戦国武将としての島津義弘
島津義弘は、数多くの戦いで卓越した軍略を発揮しました。初陣の岩剣城攻めや木崎原の戦いなどで連戦連勝を重ねます。特に釣り野伏せ(敵をおびき寄せて伏兵で討つ策)を駆使した奇襲戦法で知られ、寡兵で大軍に勝つ戦術の名手でした。
敵からはその猛将ぶりを畏怖され「鬼島津」と渾名されるほどです。朝鮮出兵においても義弘の軍は勇猛で、泗川の戦いでは数千の兵で数万規模の明・朝鮮連合軍を撃退し武名を轟かせました。
天下分け目の関ヶ原の戦いでは西軍に属しましたが、敗戦時に義弘は「島津の退き口」と呼ばれる敵中突破で脱出を果たしました。
この際の捨て奸(すてがまり:後衛が身を犠牲にして追手を防ぐ戦法)は、薩摩武士の意地を示す壮絶な戦法として語り継がれています。数々の戦歴から、義弘は戦国随一の名将として評価されています。
文化人の顔も持つ島津義弘
島津義弘は、武勇のみならず文化面でも優れた素養を示しました。彼は天下一の茶人・千利休にも師事し、侘び茶の教えを受けたと伝えられています。
また、古田織部などからも茶の湯を学び、茶会にも参加するなど、自ら茶人としての顔を持っていました。豊臣秀吉から名物の茶器を拝領した逸話もあり、義弘の文化人ぶりがうかがえます。
文禄・慶長の役で朝鮮から陶工たちを連れ帰ったのも、茶の湯文化への造詣が背景にあったとも言われます。実際、彼ら陶工によって薩摩焼が興り、薩摩肩衝と呼ばれる茶入れをはじめとする優れた茶陶が生み出されました。
義弘は学問や産業の振興にも関心を寄せており、単なる武将に留まらない文化人としての側面を持ち合わせていたのです。
島津義弘の歴史・年表
武将と文化人の両方の顔を持つ島津義弘の生涯を、年代順に主要な出来事を年表で紹介します。
項目 | 詳細 |
---|---|
1535年 | 島津家15代目当主島津貴久の次男として薩摩国に生まれる。 |
1554年 | 岩剣城(いわつるぎじょう)の戦いで初陣を飾る。 |
1557年 | 蒲生家との戦いにおいて、5本の矢を浴びながらも初の首級を挙げる。 |
1560年 | 叔父・島津忠親(しまづただちか)の養子となり、飫肥城(おびじょう)に入る。 |
1562年 | 飫肥城が肝付家(きもつきけ)の激しい攻撃を受け帰還。飫肥城は陥落、養子縁組も白紙となる。 |
1566年 | 父・島津貴久が隠居に入ったことにより兄・島津義久(しまづよしひさ)が島津家当主となる。 |
1569年 | 長男・鶴寿丸(つるじゅまる)が誕生。 |
1572年 | 木崎原の戦いでは、「釣り野伏せ戦法」により、わずか300人の兵で伊東軍3,000人の大軍を破る。 |
1573年 | 次男・島津久保(しまずひさやす)が誕生。 |
1576年 | 三男・島津家久(しまずいえひさ)が誕生。長男・鶴寿丸が加久藤城(かくとうじょう)にて早世。 |
1578年 | 耳川の戦いに参戦。大友家を破る武功を挙げる。当主・義久からも称賛される |
1585年 | 肥後国(現在の熊本県)の守護代として、阿蘇家を攻めて降伏させる。 |
1587年 | 根白坂の戦い(ねじろざかのたたかい)に参戦するも、豊臣秀吉軍に敗北を喫する。 |
1588年 | 上洛の際に豊臣秀吉より、「羽柴」の名字と「豊臣」の本姓を下賜される。 |
1592年 | 文禄の役において、朝鮮へ渡海。 |
1593年 | 朝鮮の巨済島(こじぇとう)で次男・島津久保が病死。 |
1597年 | 慶長の役に参戦。 |
1598年 | 泗川の戦いと露梁海戦(ろりょうかいせん)では、小西行長の救出に成功。 |
1600年 | 徳川家康からの援軍要請を受けて伏見城へ参上するも、鳥居元忠(とりいもとただ)に入城を拒否される。 これにより島津義弘は、徳川方と敵対することを決意。関ヶ原の戦いでは「島津の退き口」が後世に語り継がれる。 |
1619年 | 隠居先である加治木にて死去。享年85歳。 |
島津義弘が参戦した代表的な戦6選
まずは武将としての一面を持つ、島津義弘が参戦した代表的な戦を6つ紹介します。
- 島津義弘の初陣『岩剣城の戦い』
- 九州の関ヶ原『木崎原の戦い』
- 九州の覇権を争う大友氏との戦『耳川の戦い』
- 豊臣の大軍を一度は退けた『戸次川の戦い』
- 鬼島津の名を知らしめる『泗川の戦い』
- 後の島津の退き口で『関ヶ原の戦い』
島津義弘の初陣『岩剣城の戦い』
島津義弘の初陣となった岩剣城の戦いは、彼がわずか19歳のときに挑んだ戦でした。岩剣城は大隅国(現在の鹿児島県東部)にあり、島津家の大隅進出の重要な拠点とされていました。
義弘はこの戦で初めて軍を率い、巧みな指揮と果敢な攻撃で岩剣城を陥落させ、武将としての才能を示しました。
この勝利により、島津家は大隅攻略の足がかりを築き、九州制覇への第一歩を踏み出すことになります。島津義弘は初陣ながらも活躍し、この戦の褒美として、岩剣城の城代になります。
九州の関ヶ原『木崎原の戦い』
木崎原の戦いは、島津義弘がその軍略の才を初めて大きく示した合戦として知られます。伊東義祐率いる約3,000の軍に対し、義弘はわずか300の手勢で挑みました。
義弘は少数精鋭の兵を用い、釣り野伏せを駆使して敵を翻弄しました。油断した伊東軍を伏兵で包囲・撃破し、敵将・伊東祐安を討ち取るなど劇的な勝利を収めます。
この戦いで義弘の名は広まり、島津家の勢力拡大に大きく貢献しています。以後「鬼島津」の異名で恐れられるきっかけとなった伝説的な戦です。
九州の覇権を争う大友氏との戦『耳川の戦い』
耳川の戦いは、島津氏と大友氏が九州の覇権を懸けて争った大規模戦です。大友宗麟の命で出陣した田原紹忍ら約5万の大軍に対し、島津軍は約2万で応戦しました。
島津義弘は巧妙な陣立てと兵の配置で敵を誘導し、川を挟んだ戦場で一気に敵軍を崩壊させました。特に後方からの奇襲が決定打となり、大友軍は大敗、戦死者は数千に及んだとされます。
この勝利で島津家は九州南部の支配権を確立し、島津義弘の名声は一層高まりました。九州戦国史における転換点とも言える戦いです。
豊臣の大軍を一度は退けた『戸次川の戦い』
戸次川の戦いは、豊臣秀吉による九州征伐のさなか、先行して進軍した豊臣方の仙石秀久軍と島津軍との間で起こりました。島津義弘は約1万の兵を率い、四国から渡ってきた長宗我部元親や仙石秀久らの連合軍と戸次川(現・大分市)で対峙しています。
敵が統率を欠いている隙を突いて奇襲をかけ、仙石軍を壊滅させました。元親の長男・長宗我部信親が討死し、豊臣軍は大損害を被ることになります。
この戦での勝利により島津の武名はさらに高まりましたが、直後に秀吉が本格介入を開始し、戦局は大きく転換していきます。
鬼島津の名を知らしめる『泗川の戦い』
泗川の戦いは、文禄・慶長の役の末期、朝鮮南部の泗川で島津義弘が指揮した防衛戦です。義弘率いる島津軍は、この戦いで7,000余の兵で明・朝鮮連合軍約20万と対峙しています。
島津兵は寡兵ながらも、敵の食料庫や火薬を爆破させるなどして混乱を誘い、敵の大軍勢に敵軍に甚大な被害を与えました。
この戦いで義弘の名は朝鮮半島でも『鬼石曼子(グイシーマンズ)』として知れ渡り、戦国最強の名将としての評価を不動のものとしました。薩摩武士の精強さが際立った戦いとして語り継がれています。
後の島津の退き口で『関ヶ原の戦い』
関ヶ原の戦いで、島津義弘は西軍に属して出陣しましたが、当日は西軍の中心からやや離れた位置に配置されていました。
戦況が西軍不利となる中でも義弘は動かず、最後まで戦場に踏みとどまります。敗戦が確定すると、義弘は家臣たちの決死の捨て奸(すてがまり)により、敵中突破で薩摩への撤退に成功しました。
この『島津の退き口』は、わずか2千の兵が数万の敵を突破して帰還した驚異の戦術として歴史に残っています。義弘の胆力と指揮力が光る、まさに死地からの生還劇でした。
島津義弘が連れ帰った朝鮮の陶工3選
ここまで、戦国武将としての島津義弘を紹介してきました。では文化人として、薩摩焼の祖を作った島津義弘はどのような朝鮮陶工を連れ帰ったのでしょうか。次の3人の朝鮮陶工たちについて紹介します。
朴平意(ぼくへいい)
朴平意は、文禄・慶長の役の際に島津義弘によって薩摩に連れ帰られた朝鮮人陶工の一人です。薩摩に到着後は苗代川(現在の鹿児島県日置市美山)に定住し、朝鮮陶工たちの庄屋(統括役)として地域の陶業を指導しました。
彼のもとで築かれた窯では、白磁や鉄絵の技法が取り入れられ、日本の土や気候に合った焼物の生産が開始されました。これが後の「白薩摩」の源流となり、薩摩焼の基礎が築かれたのです。
朴平意は優れた技術だけでなく、人望にも厚く、白薩摩の初期発展に大きく貢献した人物です。朴平意の代表的な作品は残されていませんが、現在でも朴平意の先祖が小松原焼を作り続けています。
沈当吉(ちんとうきち)
沈当吉は、島津義弘が朝鮮出兵から連れ帰った代表的な陶工のひとりで、薩摩焼の中核を担った沈氏一族の祖とされています。
彼はその卓越した陶技により、薩摩藩の陶場の責任者に任命され、苗代川に沈家の窯を築きました。この窯は後に名門『沈壽官窯(ちんじゅかんがま)』へと発展し、現在も薩摩焼の伝統を受け継いでいます。
沈当吉の代表的な作品として、薩摩肩衝茶入があります。これは肩衝型の茶入れで、義弘も愛用したと伝わるものです。義弘は秀吉から名物茶入『平野肩衝』を拝領しており、それに着想を得て薩摩でも同様の茶器を作らせたとも言われています。
金海(きんかい)
金海は、朝鮮出兵ののち島津義弘に招かれて薩摩に渡った優秀な陶工で、茶陶に通じた技術を持っていたとされます。彼は義弘の居城に近い宇都(うと)という地域に窯を築き、そこで茶の湯向けの繊細な白磁器の製作にあたりました。
この窯は後に竪野窯(たてのがま)へと発展し、薩摩藩の御用窯として高品質な茶器を数多く生産することになります。
金海の代表的な作品として『金海茶碗 銘 福寿草』があります。この作品は、洗練された造形と上品な釉調が特徴で、茶人たちから高く評価されました。彼の手による技法と美意識は薩摩焼の上質化に大きな影響を与え、今もその流れは受け継がれています。
戦だけではない島津義弘の逸話4選
戦国武将と文化人としての顔を持つ島津義弘について紹介してきました。ここでは後世に残る島津義弘の逸話を紹介していきます。
実は兄・義久を尊敬していた
島津義弘には、実は兄・義久を深く尊敬していたという逸話があります。後世では関ヶ原の戦いをめぐり、兄弟不仲説も語られましたが、真実は異なります。
義弘は若い頃から武勇に優れ、活発な性格だった一方、義久は無口で慎重な性格で周囲から「頼りない」と揶揄されていました。
しかし義弘は兄の深慮を評価し、陰口を叩く者を諌めます。その姿勢は祖父・忠良にも賞賛され「雄武英略をもって他に傑出す」と称されたほどです。義弘の兄への敬意は、島津家の団結を支えた礎でもありました。
朝鮮出兵では遅陣してしまう
文禄の役(1592年)において、島津義弘にも朝鮮出兵の命が下されました。しかし義弘の軍は、準備不足のために出発が大幅に遅れ『日本一の遅陣』と揶揄される事態となります。
その原因は、本宗家である兄・義久の支援がほとんどなかったことでした。義弘は「家のために命を懸けるというのに、支援を怠るのは家を傾ける行為だ」と嘆いたと伝えられています。
このエピソードは、義弘がただの猛将ではなく、家の将来を案じる責任感ある人物であったことを物語っています。義弘はその遅れを戦場で数々の武功をあげることで、汚名を返上しました。
朝鮮出兵には猫を7匹連れて行く
島津義弘は朝鮮出兵に際し、7匹の猫を従軍させたという珍しい逸話が残っています。これは猫の目の瞳孔の大きさで時間を知るためでした。
猫の目は明るさによって瞳孔の開き方が変化するため、それを観察しておおよその時間を知るという工夫だったのです。当時は正確な時間管理が困難だったため、義弘の軍はこの方法で時間管理をして、凍死者を一人も出さなかったといいます。
戦上手で知られる義弘の、意外なまでに理知的で柔軟な一面を表す興味深い逸話です。
島津義弘の晩年と最期
島津義弘は関ヶ原後に隠居し、晩年を静かに過ごしました。高齢になると体力と気力が衰え、食も細くなり「ぼけた」との説も残されています。
ある日、心配した家臣が「戦ですよ」と耳打ちし、勝鬨を上げると、義弘は勢いよく食事を始めたという逸話があります。この話は、義弘の生涯がいかに戦とともにあったかを象徴するエピソードです。
また、義弘が亡くなったとき『殉死禁止令』が出ていたにもかかわらず、13人もの家臣が後を追って殉死しています。このことからも、彼がいかに深く人望を集めていたかが窺えます。
銀座真生堂では明治期の作品を取り扱っています

銀座真生堂では、薩摩焼と同じ時代に作られた明治の工芸品「七宝焼」を取り扱っております。七宝焼は美しい模様や色彩が表現された、現代の技術では再現できないとされる超絶技巧品です。
銀座真生堂は、唯一の明治期の七宝焼専門店として常時、並河靖之、濤川惣助など名工の作品を保有できています。美術館などでガラス越しにしか見ることが出来なかった並河靖之、濤川惣助の作品を実際にお手に取って鑑賞、ご購入出来る唯一のギャラリーです。
また、銀座真生堂では所有している作品を美術館での展覧会などへ貸出すなど文化活動も行なっております。ご興味のある方は、お気軽にお問い合わせください。
まとめ
島津義弘は、武将としてだけでなく、文化人としても大きな功績を残しました。義弘が朝鮮出兵から連れ帰った陶工たちによって興された薩摩焼は、明治時代には世界的に評価される伝統工芸へと成長しました。
戦上手な印象の強い島津義弘ですが、文化にも深く関わったいたことに、驚かれた方も多いのではないでしょうか。薩摩焼の誕生と発展には、島津義弘の文化的な関心と行動が大きく影響していたと言えるでしょう。
これを機に、薩摩焼をはじめとする明治期の伝統工芸に興味を持っていただければ幸いです。