七宝(七宝焼)

明治彫刻とは?明治時代に作られた作品や彫刻家たちを紹介

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木材や金属・石などのさまざまな素材を、彫ったり鋳造したりすることで創られる造形芸術の彫刻。日本では飛鳥時代から作られるようになり、日本の文化と歴史に深く関わってきました。

しかし、日本で「彫刻」という考え方が本格的に移入され始めたのは明治時代です。明治時代には海外向けの輸出品として多くの彫刻が海を渡り、海外から高く評価されました。

次第に、明治時代に作られた彫刻は、日本よりも長い歴史を持った西洋の彫刻作品に劣らない完成度となりました。

  • 明治時代の彫刻にどんな作品があったのか知りたい!
  • 明治時代に活躍した彫刻家はだれ?

⠀明治時代の彫刻に興味のある方は、上記のようなことを知りたいはず。

そこで本記事では、明治彫刻について詳しく解説します。明治彫刻の作品や明治時代の彫刻家も紹介するので、ぜひ参考にしてください。

明治彫刻とは

明治彫刻とは、その名の通り明治時代に作られた彫刻のことです。明治彫刻の特徴は、木彫や牙彫だけでなく、彫漆(ちょうしつ)や彫嵌(ちょうがん)などを取り入れた作品があることです。

彫漆とは漆を幾重にも塗り重ねて彫刻する技法であり、彫嵌はさまざまな素材を彫刻して木や象牙に象嵌する技法を指します。また、明治時代には西洋文化が取り入れられた作品が多いことも特徴のひとつです。

「彫刻」という考え方が本格的に移入され、工芸品として確立されたのが明治彫刻になります。

明治彫刻の作品

ここからは、明治彫刻の作品を5つ紹介します。

作品名作者
老猿(ろうえん)高村光雲
三宝荒神立像(さんぽうこうじんりゅうぞう)高村光雲
観音菩薩倚像(かんのんぼさついぞう)石川光明
木造魚籃観音立像(もくぞうぎょらんかんのんりゅうぞう)高村光雲
執金剛神立像(しつこんごうしんりゅうぞう)竹内久一

それぞれの作品について詳しく解説していきます。

老猿(ろうえん)

出典元:文化遺産オンライン

老猿は、高村光雲によって明治26年に作られた作品です。全身を長毛に覆われた老猿が彫られており、眼には黒色鉱物が嵌め込まれています。

シカゴ万国博覧会に出品された大作であり、大鷲と格闘した直後の気迫に満ちた猿の姿が巧みに表現されています。

三宝荒神立像(さんぽうこうじんりゅうぞう)

出典元:文化遺産オンライン

三宝荒神立像も、高村光雲によって19〜20世紀に作られた作品です。金剛夜叉明王(でんこんごうやしゃみょうおう)が大迫力で表現されています。

代表作の「老猿」の迫真的な表現とは異なり、伝統的な仏像彫刻として堅実な作風をみせていることが特徴的です。

観音菩薩倚像(かんのんぼさついぞう)

出典元:文化遺産オンライン

観音菩薩倚像は、石川光明によって明治26年に作られた作品です。平面に絵や模様・文字などが浮き上がるように彫る「浮彫り」が取り入れられていることが特徴です。

観音菩薩の服や周囲の繊細な模様まで、巧みに表現されています。

木造魚籃観音立像(もくぞうぎょらんかんのんりゅうぞう)

出典元:文化遺産オンライン

木造魚籃観音立像は、高村光雲によって明治36年に作られた作品です。伊勢銅器組合の鋳造用原型として、当時の津市長が依頼したとされています。

装飾や手に持っているものまで精密に作られている作品です。

執金剛神立像(しつこんごうしんりゅうぞう)

出典元:文化遺産オンライン

執金剛神立像は、竹内久一によって明治26年に作られた作品です。古典的な仏教尊像の姿を、近代的に解釈して創作していることが特徴的です。

1893年に米国のシカゴで開催された万国博覧会の出品作になります。

明治時代の彫刻家

ここからは、明治時代の彫刻家を紹介します。今回紹介するのは次の5人です。

  • 高村光雲(たかむらこううん)
  • 石川光明(いしかわこうめい)
  • 旭玉山(あさひぎょくさん)
  • 安藤緑山(あんどうろくざん)
  • 竹内久一(たけうちきゅういち)

それぞれの人物像をみていきましょう。

高村光雲(たかむらこううん)

高村光雲は明治以前は仏師として、明治以降は木彫の彫刻家として活躍した人物です。当時、西欧諸国への輸出品として象牙の彫刻が流行している中、光雲はずっと木彫の制作を続けていました。

また、西欧美術の写実性に心打たれた光雲は、特に草花や鳥獣をメインに写実的な表現を追い求めていたことが特徴です。1893年のシカゴ万博に出品した『老猿』は、猿が大鷲と格闘した直後の緊張感を見事に表現し、重要文化財に指定されました。

他にも、代表作として『矮鶏(ちゃぼ)置物』や上野恩賜公園の『西郷隆盛像』などが挙げられます。

石川光明(いしかわこうめい)

石川光明は、明治初期に流行した牙彫(げちょう)の第一人者として知られている彫刻家です。叔父から宮彫を習ったことをきっかけに、彫刻の道に進むことになります。

1878年には、同じ明治期の名工であった旭玉山と東京彫工会で研究を始め、近代彫刻の発展に貢献しました。シカゴ万博で優秀賞、パリ万博で金賞を受賞するなど、高い評価を受けていた人物です。

代表作としては、『古代鷹匠置物』や『野猪』が挙げられます。

旭玉山(あさひぎょくさん)

旭玉山は、明治から大正にかけて活躍した彫刻家です。幼い頃から細工物に優れ、24歳のときに嵌入(はめ込み)彫刻を始めます。

旭玉山は、髑髏の置物や人体骨格などの作品が多いことが特徴です。1878年には、石川光明たちと東京彫工会を結成し、明治牙彫界に重きをなしていました。

代表作としては、『牙彫髑髏置物』や『人体骨格』などが挙げられます。

安藤緑山(あんどうろくざん)

安藤緑山は、明治初期から昭和初期まで活躍した彫刻家です。高校卒業後に象牙彫刻を習って独立しました。

安藤緑山は、果物や野菜といった身近なものを表現した象牙彫刻を中心に制作していたことが特徴的です。また、作品には象牙に色付けをしたものが多くあります。

しかし、当時の牙彫は白地の肌合いが重視されていたため、緑山の作品が高い評価を得ることは多くありませんでした。

代表作としては、『竹の子と梅』や『茄子』などが挙げられます。

竹内久一(たけうちきゅういち)

竹内久一は、明治から大正にかけて活躍した彫刻家です。久一は、父が浮世絵師ということもあり、幼いころから伝統的な芸術に触れて育ちました。

1869年には、象牙彫刻家の堀内龍仙に弟子入りし、実力をつけていきます。また、岡倉天心との出会いによって、東京美術学校の創設に関わることになります。

1890年には内国勧業博覧会に出品した「神武天皇立像」が大きな評判を呼び、当時の日本を代表する彫刻家のひとりとなりました。

銀座真生堂では明治工芸品を取り扱っております

銀座真生堂では、明治彫刻と同じ時代に作られた明治の工芸品「七宝焼」を取り扱っております。七宝焼は美しい模様や色彩が表現された、現代の技術では再現できないとされる超絶技巧品です。

銀座真生堂は、唯一の明治期の七宝焼専門店として常時、並河靖之、濤川惣助など名工の作品を保有できています。美術館などでガラス越しにしか見ることが出来なかった並河靖之、濤川惣助の作品を実際にお手に取って鑑賞、ご購入出来る唯一のギャラリーです。

また、銀座真生堂では所有している作品を美術館での展覧会などへ貸出すなど文化活動も行なっております。ご興味のある方は、気軽にお問い合わせください。

まとめ

本記事では、明治彫刻の作品や明治時代の彫刻家などを紹介しました。明治に作られた工芸品はどれも高い技術を誇ります。

ジャポニズムを巻き起こすことになった作品たちを実際に見てみたいという方は、博物館や美術館を訪れてみましょう。

また、以下の記事では明治工芸について詳しく解説しているため、あわせて参考にしてください。本記事があなたのお役に立てることを願っております。

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執筆者
銀座真生堂
銀座真生堂
メディア編集部
七宝焼・浮世絵をメインに古美術品から現代アートまで取り扱っております。 どんな作品でも取り扱うのではなく私の目で厳選した美しく、質の高い美術品のみを展示販売しております。 このメディアで、美術品の深みや知識を発信していきます。
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