明治工芸

薩摩焼の有名作家10選!薩摩焼の発展を支えてきた名工たちを紹介

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日本の伝統工芸品として、今も多くの人に親しまれている「薩摩焼」。国内だけでなく海外でも多くの人気を集めており、海外では「SATSUMA」と呼ばれています。

明治時代には日本を代表する特産品として世界各地に輸出されていた過去もあり、まさに日本を代表する工芸品といえます。そんな薩摩焼が日本の伝統工芸品に指定されるまでには、多くの作家たちの努力がありました。

そこで本記事では、薩摩焼の有名作家10選を紹介します。薩摩焼に興味のある方は、ぜひ参考にしてください。

薩摩焼とは

薩摩焼は、陶工の手によって独自の発展を遂げた鹿児島の焼き物です。薩摩焼が日本で作られるようになったのは、1592年〜1598年に行われた「文禄・慶長の役」、別名「朝鮮出兵」がきっかけです。

朝鮮出兵の際に、薩摩藩主の島津義弘が朝鮮から80人の陶工を連れてきて、薩摩藩各地に窯を開いたことで薩摩焼が生まれました。その後、陶工のスタイルによって異なる種類のやきものが作られるようになり、薩摩焼は多様な展開をしていきます。

明治時代には海外から高く評価され、2002年に国の伝統的工芸品に指定されたことで、薩摩焼は工芸品としての価値を確立していきました。

薩摩焼の種類

ここでは、薩摩焼の種類を紹介していきます。薩摩焼には、大きく分けて次の2種類があります。

それぞれについては以下で詳しく解説していきます。

本薩摩

本薩摩とは、一般的によく知られている鹿児島で作られた薩摩焼のことです。本薩摩には、白薩摩(白もん)と黒薩摩(黒もん)の2種類があります。

白薩摩(白もん)とは、貴重な白陶土を原料として作られる薩摩焼です。淡いクリーム色や象牙色の生地に、赤や青・緑などの絵の具で絵付けがされています。

黒薩摩(黒もん)は、地元・鹿児島の鉄分を多く含む土を原料として作られる薩摩焼のことです。白薩摩とは異なり、鉄分の多い土を使用していることから真っ黒な見た目をしています。

基本的には、白薩摩(白もん)は薩摩藩の御用品として扱われ、黒薩摩(黒もん)は庶民の間で実用的な焼き物として使われていました。

京薩摩

京薩摩は、明治時代の初めに京都で作られた薩摩焼のことです。豪華な色彩や緻密な絵付が特徴であり、その高い技術から超絶技巧と呼ばれています。

京薩摩が作られるようになったのは、海外での薩摩焼の評判を知った京都の窯元たちが、同様の焼き物の製作に取り組んだことがきっかけです。

京薩摩は海外から高く評価され、次第に鹿児島で作られる本薩摩を凌駕する人気を集めるようになります。しかし、京薩摩は欧州での対戦事情や日本の急速な工業化の推進を背景に技術の継承が途絶え、その歴史に幕を閉じました。

そのため、現代では「幻の京薩摩」と呼ばれています。

薩摩焼の有名作家10選

いよいよ、薩摩焼の有名作家10選を紹介していきます。今回紹介するのは次の10人の作家たちです。

  • 錦光山
  • 素山
  • 精巧山
  • 藪明山
  • 阪錦山
  • 中村楳渓
  • 介山
  • 司山
  • 松本寶山
  • 松山

それぞれの人物について以下で詳しく解説するため、ぜひ参考にしてください。

錦光山

(六代 錦光山宗兵衛肖像画と七代 錦光山宗兵衛肖像写真)

錦光山は、天保年間より代々京都の栗田口で陶製を営み、青蓮院の御用や将軍の御用品を製作していた老舗の窯元を開いていた人物です。六代がいち早く輸出の途を開き、七代が事業を引き継ぐことでさらなる発展をみせました。

明治3年より薩摩金襴手に習った京薩摩の製作を試みたのも六代であり、京薩摩の生みの親といえます。京都栗田口では当時の日本でおそらく最も大きな窯元の一つであり、安価品から最高級品まで幅広く製作されました。

素山

素山は、輸出薩摩最盛期に京都で活躍した絵付け師です。錦光山銘と素山銘が併記された作品が多数残っていることから、錦光山工房の仕事も請け負っていたとされています。

絵付け師として国内外で大変評価の高い人物です。

精巧山

精巧山は【大日本神戸 精巧山造之】【大日本神戸 精巧山製造】銘の作例があり、神戸で絵付けを行っていた工房とされています。その名の通り、細かい意匠の精巧な作品が多く残されています。

藪明山

​​​​​​藪明山は、東京で陶磁器絵付けを習い、明治13年に大阪中之島に「陶器描画場」を開業した人物です。素地は鹿児島の沈寿官や京都の粟田口から取り寄せ、専ら絵付けのみを行っていました。

細密絵付の高品質な作品に定評があり、海外でもっとも評価されている作家の一人です。手描きの作品の他、銅版絵付けによる下絵を採用した作例も多く残っています。

阪錦山

阪錦山は、生没年や活動地域などの詳細は不明ながら、質の高い作品を多く残している工房です。「神戸阪錦山」が隠し文字となっている作品が残されていることから、神戸に工房を構えていたとされています。

残された作品のほとんどが良品ばかりで、質の高い工房であったことが分かります。

中村楳渓

中村楳渓は、生没年や活動場所など詳細は不明ながら、素晴らしく精巧な作品が残されている、海外でも大変評価の高い絵付の一人です。京都の作陶家、帯山印のある素地に絵付けしている作品が確認されており、現時点では京都で絵付けを行っていたとされています。

作品の底に、銘の他に大変細かい字で作品の品質保証や製作の苦労などを書き付けたものが多く残っていることが特徴的です。書き付けの輪郭は作品表面の意匠に関連した形状(大名行列であれば烏帽子型、花鳥図であれば紅葉型など)をとっており、細部までこだわりがうかがえます。

介山

介山は、神戸の絵付け師です。銘と共に書き付けのある作品が残されており、神戸元町にある工房で絵付けを行っていました。

司山

司山は、神戸市布引下温泉前で薩摩焼貿易商を営んでいた人物です。生没年など詳細は不明ながら、繊細で金と黒が比較的強調された独特の作風が特徴として挙げられます。

「司山」「司山製」印銘とともに、「布引長江司山」銘と「大日本神戸司山」との書付が作品中に見つかっております。神戸市布引下温泉前で薩摩焼貿易商を営んでいた長江司山のことであると考えられます。中規模から大規模工房であったと考えられます。

松本寶山

松本寶山は京都粟田口、東町の窯を運営していた人物です。本名を松本忠兵衛といいます。

江戸中期に、室町時代から続く茶碗屋宝山に弟子入りしていました。松本寶山は、明治16年刊行の「都の魁」に陶器製造所として掲載されており、立派な店構えで繁昌していた様子がうかがえます。

松山

松山は京都の陶工であり、本名を奥村安太郎といいます。彦根藩の湖東焼を経て、京都に移住し清水焼の製作を行っていました。

明治3年に日本で最初の西洋絵の具の試用に成功し、宮内庁御用なども受けた幹山伝の元で修行していました。明治9年に独立して作陶を開始し、明治10年からドイツのアーレンス商会の求めに応じて直接製品を製作していたとされています。

銀座真生堂では明治工芸品を取り扱っております

銀座真生堂では、薩摩焼と同じ時代に作られた明治の工芸品「七宝焼」を取り扱っております。七宝焼は美しい模様や色彩が表現された、現代の技術では再現できないとされる超絶技巧品です。

銀座真生堂は、唯一の明治期の七宝焼専門店として常時、並河靖之、濤川惣助など名工の作品を保有できています。美術館などでガラス越しにしか見ることが出来なかった並河靖之、濤川惣助の作品を実際にお手に取って鑑賞、ご購入出来る唯一のギャラリーです。

また、銀座真生堂では所有している作品を美術館での展覧会などへ貸出すなど文化活動も行なっております。ご興味のある方は、気軽にお問い合わせください。

まとめ

本記事では、薩摩焼の発展を支えてきた有名作家を10人紹介しました。薩摩焼は多くの作家たちが努力し、自身の技術を磨いてきたからこそ、現代まで語り継がれるものとなっています。

今回紹介した作家の中で興味のある人物がいたら、博物館や美術館に作品が展示されていないか探してみましょう。

また、以下の記事では明治工芸について詳しく解説しているため、あわせて参考にしてください。本記事があなたのお役に立てることを願っております。

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執筆者
銀座真生堂
銀座真生堂
メディア編集部
七宝焼・浮世絵をメインに古美術品から現代アートまで取り扱っております。 どんな作品でも取り扱うのではなく私の目で厳選した美しく、質の高い美術品のみを展示販売しております。 このメディアで、美術品の深みや知識を発信していきます。
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