【伝統工芸品】金工の歴史を詳しく解説!時代ごとの変遷や代表的な金工作家まで
日本各地で独自の発展を遂げてきた「金工」。越後三條刃物や高岡銅器、南部鉄器、東京銀器など、日本の伝統的工芸品に指定されているものも多く、国を代表する美術品です。
そんな金工の始まりは弥生時代と言われています。弥生時代からさまざまな経緯を経て、国を代表する伝統工芸品に指定されるまでになりました。
- 「金工がどのように発展してきたのか歴史が知りたい」
- 「金工はどんな技法で作られたの?」
金工に興味のある方は、上記のような情報を求めているでしょう。
そこで本記事では、金工の歴史について解説します。あわせて、金工の主な技法や代表的な金工作家についても紹介するので、ぜひ参考にしてください。
金工とは
金工とは、金や銀、銅、鉄などの金属に細工をする工芸のことです。また、金属を加工して作られる工芸品のことを金工品といいます。
日本では古くから金工の技術が用いられ、鍋や釜、日本刀など様々な金工品が作られてきました。地域によって独特な発展を遂げており、中には伝統工芸品に指定されたものも多くあります。
現代まで受け継がれる日本の金工の技術は、刀の飾り金具である「刀装具(とうそうぐ)」を作る技術から多くを受け継いでいます。
金工の歴史
ここからは、金工の歴史についてみていきましょう。今回は下の時代区分ごとに金工の歴史を紹介していきます。
それぞれ以下で詳しく解説するため、ぜひ参考にしてください。
弥生時代〜飛鳥時代
日本に金属とその加工技術がもたらされたのは、弥生時代初期のことです。稲作の開始とともに中国大陸・朝鮮半島から鉄や青銅の製法が伝わったとされており、剣や銅鐸、装身具などが作られました。
古墳時代になると馬具や甲冑が作られ、青銅器の剣や鏡などへの装飾も見られるようになります。金属とその加工技術がもたらされたことで農具の性能が向上し、人々の暮らしはより豊かなものへと発展しました。
奈良時代〜安土桃山時代
奈良時代に入ると朝鮮半島から仏教が伝わり、仏像の鋳造技術が発達するようになります。仏教美術が盛んになると、寺院の飾り金具などに彫金技術が施されるようになり、優れた金属工芸品や美術品に製作が広がっていきます。
また、奈良時代には中国や朝鮮の技術者も多く渡来し、日本各地で金工品が発展しました。鋳物や鍛造、メッキといった金属加工の技術もこの頃に始められたとされ、奈良時代に日本の金工技術は大きく成長を遂げました。
鎌倉、安土桃山時代になると、金属工芸の産業化や量産化が進み、金工技術はさらに進歩していきます。南蛮貿易が始まったことも金工技術の進歩に大きく関わっており、ヨーロッパの文化や技術が日本の工芸品に様々な影響を与えました。
江戸時代〜明治時代
江戸時代になると日本は鎖国状態に入り、金工技術は独自の発展を遂げていくことになります。江戸時代、武士階級は刀を必ず身につけていました。
そのため、金工の需要は高く、技術が発達するとともに細工もより凝ったものになっていきました。
しかし、明治時代の始まりとともに、武士の時代は終わりを迎えます。職を失った金工家たちは転業を余儀なくされ、政府の政策のもと海外への輸出品制作へと活路を見出してゆきます。
その後、日本は1873年に開催されたウィーン万博博覧会に銅器や陶磁器などの工芸品を出品します。そこでヨーロッパを中心に高い評価を得たことで、日本は「美術工芸の国」として認知されるようになりました。
金工の主な技法
ここからは、金工の主な技法について解説します。代表的な技法は次の3つです。
それぞれ以下で詳しく解説するため、ぜひ参考にしてください。
鋳金(ちゅうきん)
鋳金は、作品の原型から取った型に、溶かした金属を流し込んで成形する技法のことです。鋳金に使う型を鋳型(いがた)といい、鋳金技法で作られたものを鋳物(いもの)といいます。
一般的に鋳金は、仏像や銅像、寺社の梵鐘を作る技法として使われていました。また、ひとつの原型から型を複数取って量産できるため、工業製品のパーツやジュエリーの製作にも使われています。
鍛金(たんきん)
鍛金は、金属の板を金槌や木槌で叩いて加工する技法のことです。金属の加工方法として広く知られている方法であり、聞いたことがあるという方も少なくないでしょう。
金属の板材を当て金と呼ばれる鉄の棒に当て、叩いて絞ることによって成形していきます。鍛金は、お皿や酒器、急須などを作る際に使われるのが一般的です。
彫金(ちょうきん)
彫金は、鏨(たがね)と呼ばれる鋼鉄製の工具を用いて金属を成形したり、模様を彫る技法のことです。鏨にはさまざまな種類があり、使い分けることで彫りや透かし、打ち出しといったさらに細かい技法に分類されます。
また、鏨で金属の表面に溝を彫り、溝に別の金属を埋め込む「象嵌(ぞうがん)」という技法もあります。彫金は、家具やジュエリー、仏具の製作に使われるのが一般的です。
代表的な金工作家
ここでは、代表的な金工作家を紹介していきます。代表的な金工作家として今回紹介するのは次の3人です。
それぞれの人物について詳しく紹介するため、ぜひ参考にしてください。
後藤一乗(ごとういちじょう)
後藤一乗は、幕末・明治初期に活躍した装剣金工家です。日本の刀装金工を語るうえで欠かせない存在である「後藤家」の人間になります。
後藤一乗は、幼い頃から彫金の世界で修行を重ね、江戸で将軍家のお抱えとして金工作品を制作していました。光格天皇や孝明天皇の刀装具制作も担当するなど、幕末に衰退していた後藤家の救世主として知られています。
また、後藤一乗の豪華で格調の高い作風は高く評価され、金工界の名工へと上りつめました。衰退していた後藤家に新たな息吹を吹き込んで再興した変革者であり、日本の金工技術の発展に大きく貢献した人物です。
加納夏雄(かのうなつお)
加納夏雄は、幕末・明治時代に活躍した彫金家です。12歳の頃に金工を学び始め、6年間かけて絵画のような美しさが特徴的な大月派の技法を修得した後、27歳で江戸へ移ります。
江戸へ移ったのち新貨幣鋳造計画に参画したり、帝室御用達となって明治天皇の太刀の装具を彫刻していました。加納夏雄の作品は、鏨を斜めに打ち込んで描く独特な片切り彫りが特徴的であり、他の彫金家には真似できない技術と言われています。
香川勝廣(かがわかつひろ)
香川勝廣は、加納夏雄の弟子として知られている人物です。絵画や木彫りなどさまざまなジャンルの技術を身につけており、加納夏雄から彫金の技術を取得後、金工作家としての成功を収めました。
1893年には、加納夏雄と2人で明治天皇のご剣の外装制作に携わり、明治天皇から高い評価を受けています。また、帝室技芸員となって皇室に多くの工芸品を献上し、日本の金工の発展に大きく貢献しました。
銀座真生堂では明治工芸品を取り扱っております
銀座真生堂では、金工と同じ国を代表する伝統工芸品のひとつである「七宝焼」を取り扱っております。七宝焼は美しい模様や色彩が表現された、現代の技術では再現できないとされる超絶技巧品です。
銀座真生堂は、唯一の明治期の七宝焼専門店として常時、並河靖之、濤川惣助など名工の作品を保有できています。美術館などでガラス越しにしか見ることが出来なかった並河靖之、濤川惣助の作品を実際にお手に取って鑑賞、ご購入出来る唯一のギャラリーです。
また、銀座真生堂では所有している作品を美術館での展覧会などへ貸出すなど文化活動も行なっております。ご興味のある方は、気軽にお問い合わせください。
まとめ
本記事では、金工の歴史や主な技法、代表的な金工作家について解説しました。金工は弥生時代に日本に伝えられて以降、時代に合わせた発展を遂げ、現在にも継承されています。
高岡銅器や南部鉄器といった、国を代表する伝統工芸品に指定されているものも多くあります。金工作品に興味のある方は、ぜひ実際に手に入れてみましょう。
また、日本には、金工以外にも様々な種類の工芸品があります。
以下の記事では明治工芸について詳しく解説しているため、あわせて参考にしてください。本記事があなたのお役に立てることを願っております。