薩摩焼の歴史とは?薩摩焼が現代に伝わるまでの軌跡を解説
日本の伝統工芸品として知られる「薩摩焼」。薩摩焼は大きく分けると、鹿児島で生まれた「本薩摩」と京都で制作された「京薩摩」の2種類があります。
それぞれに違った魅力があり、なかでも「京薩摩」は超絶技巧と評されるなど、まさに国を代表する工芸品といえます。
現代でも人気の高い薩摩焼が制作されるようになったのは、戦国時代からになります。幾人もの名工たちが技術を磨き上げ、明治時代には世界にも高く評価されるようになりました。
- 薩摩焼の歴史が知りたい
- どんな人たちが薩摩焼の製造に関わったのか知りたい
薩摩焼に興味のある方は、上記のようなことを知りたいと思っていることでしょう。
そこで本記事では、薩摩焼の歴史について詳しく解説します。あわせて、薩摩焼の歴史に深く関わる人物についても解説するので、ぜひ参考にしてください。
また、下の記事では薩摩焼について詳しく解説しています。あわせて参考にしてください。
薩摩焼の歴史
さっそく、薩摩焼の歴史をみていきましょう。今回は明治時代以前と以降の視点から薩摩焼の歴史について解説します。
それぞれ以下で詳しく解説するため、ぜひ参考にしてください。
明治時代以前
薩摩焼が日本で作られるようになったのは、1592年〜1598年に行われた「文禄・慶長の役」、別名「朝鮮出兵」がきっかけです。朝鮮出兵の際に、薩摩藩主の島津義弘が朝鮮から80人の陶工を連れてきて、薩摩藩各地に窯を開いたことで薩摩焼(本薩摩)が誕生しました。
それぞれの窯場では陶工のスタイルによって異なる種類のやきものが作られるようになり、薩摩焼は多様な展開をしていきます。日本の窯場としては、苗代川系・竪野系・龍門司系・西餅田系・平佐系の5つの流派が代表的です。
現代では、苗代川系・龍門司系・竪野系の3つの窯場のみ残っています。
明治時代以降
明治時代になると、薩摩焼は海外からの人気を集めるようになります。きっかけとなったのは、1867年に行われたパリ万国博覧会に日本を代表して薩摩焼が出典されたことです。
パリ万国博覧会に出展された白薩摩の美しさがヨーロッパ人の心を捉え、「SATSUMA」と呼ばれて親しまれるようになります。いわゆる「ジャポニズム」の到来です。
ジャポニズムをきっかけに、日本の工芸品は海外から高く評価されるようになっていきます。また、明治時代初めには、超絶技巧と称される細密な絵付を特徴とする「京薩摩」が生まれました。
さらに、京都に続いて日本各地で薩摩焼が作られるようになり、2002年に国の伝統的工芸品に指定されることになります。こうして、薩摩焼は工芸品としての価値を確立していくことになりました。
2007年にはフランス国立陶磁器美術館において「薩摩焼パリ伝統美展」が開催され、現代においても薩摩焼は高く評価されています。
薩摩焼の代表的な5つの窯場
ここからは、薩摩焼の代表的な5つの窯場について紹介していきます。薩摩焼の発展には、次の5つの窯場(流派)が大きく関係しています。
それぞれ以下で詳しく解説するため、ぜひ参考にしてください。
竪野系
竪野系は、1601年に金海(星山仲次)が姶良郡姶良町である帖佐(ちょうさ)に開いた窯場です。白陶土を使った作品を多く制作しており、白薩摩の起源になったとされています。
藩の庇護を受けていたという背景から、献上用の茶碗・茶入れといった白薩摩を多く作っていたことが特徴です。明治維新以降、一時期その歴史は途絶えてしまったものの、竪野系の絵師「有山長太郎」によって1899年に再興されました。
竪野系が初期に制作していたものは古薩摩といわれ、薩摩焼の主流をなしていた今も残っている流派です。
龍門司系
龍門司系は、1608年ごろに芳仲(ほうちゅう)が加治木龍口坂に開いた窯場です。黒もん(黒薩摩)の制作を得意としており、美しい姿の使いやすい日用品が多く焼かれています。
また、黒釉や青釉、三彩釉といった多くの釉を使った多種多様な作品を制作していたことが特徴です。のちに芳仲の養子となった山本碗右衛門(やまもとわんえもん)が龍門司系を継承し、新たに龍門司に築窯しました。
戦後には、龍門司焼企業組合となり、400年の歴史がたった今も伝統技法が守り継がれています。
苗代川系
苗代川系は、1599年に串木野窯を開いた朴平意が苗代川に移住して開いた窯場です。元々は黒もん(黒薩摩)や火計手(ひばかりで)を作っていました。
しかし、1782年に国内で白陶土が見つかったことをきっかけに、白薩摩(白もん)の製作を開始するようになります。1844年には、さまざまな色合いの上絵が施された陶磁器「錦手」や、錦手に金彩を施した「金襴手(きんらんで)」の制作を開始。
錦手や金襴手の産地として全国的に知られるようになりました。
西餅田系
西餅田系は、1663年に修験者である小野元立が開いた窯場です。元立院系とも呼ばれており、蛇や蝎の肌感を再現するために用いられる釉・蛇蝎釉(じゃかつゆう)を使用した独特な焼き物を作っていました。
なかでも、焼かれることで黒釉がちぢれる黒蛇蝎釉が有名です。しかし、西餅田系は1746年に陶工が龍門司系へと移ったことで廃窯となり、その歴史を終えています。
平佐系
平佐系は、今井儀右衛門が有田の陶工を招いて脇元に開いた窯場です。染付白磁を焼いていたことが特徴として挙げられます。
しかし、平佐系は数年で廃窯となりました。
薩摩焼の歴史に深く関わる人物
ここでは、薩摩焼の歴史に深く関わる人物についてみていきましょう。代表的な人物としては、以下の3人が挙げられます。
それぞれの人物について以下で詳しく解説するため、ぜひ参考にしてください。
島津義弘(しまづよしひろ)
島津義弘は、生涯で52回の合戦に出陣し、数多くの戦功を上げた戦国時代屈指の武将です。三州統一や九州攻略、文禄・慶長の役などで常に戦地最前線で指揮し、島津家の勢力拡大を支えた中心的人物として知られています。
また、島津義弘は、学問や産業振興に秀でた文化人だったという一面もあります。産業振興にも実績を残し、朝鮮から80人の陶工を連れてくることで薩摩焼誕生のきっかけをつくりました。
金海(きんかい)
金海は、朝鮮出兵の際に島津義弘によって連れてこられた陶工のひとりです。薩摩焼の主流をなしていた竪野系の創始者として知られています。
宇都窯だけでなく、御里窯、冷水窯などを開き、様々なスタイルの陶磁器の制作を行った人物です。
朴平意(ぼくへいい)
朴平意も、朝鮮出兵の際に島津義弘によって連れてこられた陶工のひとりです。苗代川系の創始者として知られています。
また、薩摩で初めて白陶土を発見した人物です。朴平意が白陶土を発見したことで、「黒薩摩」しかなかった苗代川で、薩摩焼の高級陶器「白薩摩」が作られるようになりました。
銀座真生堂では明治工芸品を取り扱っております
銀座真生堂では、薩摩焼と同じ時代に作られた明治の工芸品「七宝焼」を取り扱っております。七宝焼は美しい模様や色彩が表現された、現代の技術では再現できないとされる超絶技巧品です。
銀座真生堂は、唯一の明治期の七宝焼専門店として常時、並河靖之、濤川惣助など名工の作品を保有できています。美術館などでガラス越しにしか見ることが出来なかった並河靖之、濤川惣助の作品を実際にお手に取って鑑賞、ご購入出来る唯一のギャラリーです。
また、銀座真生堂では所有している作品を美術館での展覧会などへ貸出すなど文化活動も行なっております。ご興味のある方は、気軽にお問い合わせください。
まとめ
本記事では、薩摩焼の歴史や薩摩焼に深く関わる人物について解説しました。薩摩焼は一人の武将と名工たちによって作られた伝統工芸品です。
現代にも残っている技術のため、興味のある方はぜひ実際の薩摩焼を手に入れてみてください。また、明治時代には、薩摩焼以外にも様々な種類の工芸品があります。
以下の記事で明治工芸について詳しく解説しているため、あわせて参考にしてください。本記事があなたのお役に立てることを願っております。