並河靖之 「七宝」の制作環境ー「店」と「工場」

「大きな倉庫、大きな作業場はいりません。一〇〇人以上の従業員を持つ野心もありません。多量の依頼や商売上の注文を取ったり、与えられた時間内で制作をすることは御免です」

1880 年代後半に米国から訪来したシドモアが聞いた靖之の言葉であり、自分の目が行き届く七宝製作を旨とした靖之の理念がみえる。この時靖之はシドモアを作法に適った手づからの煎茶でもてなしており、甘露な茶味を彼女は菫の香りにたとえ、初めて訪れた並河邸の高揚感を伝えている。内外の博覧会での名声により、多くの外国人客が並河邸を訪れるようになり『芳名帳』に記された署名は 3,000人を超える。

1894年には邸内を改修し、パリ万国博覧会をはじめとした栄誉から授かった恩恵に感概を込め庭園を「巴里庭」と名付け来客への心からのもてなしとした。作庭は後に近代庭園の先覚者となる隣家の造園家・七代目小川治兵衛(1860-1933, 屋号:植治)である。

建物は外国人客に配慮し鴨居の内法を六尺と高くし、縁先には硝子障子をめぐらすなど趣向をこらした。

並河邸にはシドモアをはじめ国内外のジャーナリストたちが関心を向けており、他にもキプリング、ポンティング、黒田らによる訪問記もあり、彼らは靖之の案内で「工場」を見聞し作業の細かさと手間に驚愕している。キプリングは職工たちが「限りない忍耐心」で仕事をしていると感じ、黒田は「七宝家には成りたくないと思わしむ」と述べている。

一方で職工たちは時間や期限に縛られることなく、芸術家の気質があり、「工場」は極めて自由で快適な環境の中であったこともシドモアやポンティングは伝えている。また、キプリングは見事な七宝図案をみせてもらい、着想や題材とするため「工場」の天井に吊るされた鳥籠から美しく囀る鳥の声を聴き、華やかな蝶が舞う虫籠を目にしている。

彼らの訪問時期には開きがあり、その間に改修があったため、目にしたのが同じ「工場」とは限らないが、一様に非常に整然として作業工程の順に机が並び、清潔かつ爽やかな環境と感想を記している。黒田は「真に美術工藝家の工場と称するに足る。」と語り、ポンティングは他の工芸家たちとは違うと賛辞し「彼の住まいや庭は大層美しく、彼の人柄は極めて個性に富んでいたので、この家を訪れたときのことは、京都の思い出の中でも最も楽しかった思い出として、私の記憶に永く残る事であろう。」と言葉を残している。

誰もが七宝の秀逸さに感嘆し、思いがけない庭園の存在にも驚かされた。主屋と「工場」の合間をつなぐ庭が建物の硝子障子越しに広がり、邸内を程よく調和させる役割をした。

靖之は主屋に居ながらに「工場」に目配りができ、職工たちは仕事をしつつも主屋の主人や来客を窺うことができた。晴之の養女・徳子も「職人達が工場から父の煙草盆の灰ふきをたたく音によって、今日は旦那の御機嫌が悪いとか良いとか判断する」と懐述している。

当時は貴重であった硝子隊子を「工場」に設えた第一の目的は採光であり、戸口を開放せずに室内を明るく保ち防塵ともなった。黒田は池の水音を「池水また宗然として不断の音楽を奏す」と表現しているが、池の三か所に瀧口があり、邸内を心地よい響きで満たす水音は庭園の清々とした環境を印象的とする要素となった。

 

並河七宝にはどこか仙境を思わせる不思議な雰囲気も漂うが、靖之の人生観や七宝業と深く関わるものであり、邸宅や製作環境からもその所以が浮かび上がる。1906年に東京上根岸にて創業する勲章製造の工場にも池泉のある庭があり、靖之の製作環境に対するこだわりをみることができる。

往時、並河七宝の「店」には七宝を目的に大勢の来客があったが、靖之は近隣との交流も大事にしており、七代目治兵衛や同業の稲葉七穂(1849-1931)、陶芸家や画家、実業家など様々な人物の顔ぶれがあった。靖之がかつて久邇宮家の家従を勤めた縁により朝彦親王(1824-1891)の王子女らも靖之を度々訪ねていた。邸内には華やぎある文化的な生活があり、国際性にも富んだ多様な要素が調和する上質な空間があった。

靖之は「七宝について、飽までよくしたいという考へでムいまして」 との一心で生涯励み続けた。靖之が万物への感謝を込めて営んだ邸宅と「巴里庭」は生命力あふれる創造性を育む場であり、七宝製作の材料と同じく不可欠な存在であることを訪問者の誰もが感

受したのである。時を経て、並河七宝の生まれ故郷は靖之の偉業を未来に語りつぐ記念館となり、今日尚、訪れる人々をもてなす場となっている。

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