並河靖之と会った英国人写真家

明治時代を生きた英国人写真家 ハーバード・G・ポンティング が当時、並河靖之と出会った時のことを書いた書籍から一部抜粋致しました。

【七宝焼の技術は、歴史が新しいわけではないが、その技術をこの国でも他のどこの国でも達し得なかった最高の水準にまで高めたのは、京都で現在活躍している何人かの代表的工芸家の力である。

彼の家を訪れたときのことは、京都の思い出の中でも最も楽しかった思い出として、私の記憶に永く残ることであろう。

どれもこれも全く同じような瓦葺きの二階家が建ち並んだ通りを、次から次へと人力車を走らせて行ったが、通りの家の羽目板や障子の後ろに、宝物のような美術品が隠されているような気配は全然見えなかった。

車夫は額や、剛い毛の生えた頭から吹き出す大粒の汗を拭いながら、人の良い笑みを満面に浮かべて、小さな標札を指さした。それは門に掛けてある数インチの長さの名札で「七宝師Y・並河」と簡単に記してあった。

庭をちらりと横手に見て案内されたのは、純然たる日本間であったが、ただその一隅に大きな戸棚と優美な中国風の黒檀のテーブルが置いてあった。

この部屋で並河氏と初めて会ったのだが彼は落ち着いた話し方をする物腰の丁寧な人物で、その洗練された古風な顔立ちは、芸術家特有の優しい感受性と豊かな性格を表していた。広く高い額は知性と教養を物語っていた。穏やかで優しい眼は思いやりのある性質を示しており、話をするときは、上機嫌で楽しそうにその目を輝かせた。鼻は日本人としては大きい方だったが、鼻筋は細く、育ちの良さと繊細な性格を表していた。形の良い口の下にある顎は、やや幅広だが特に目立つほどではなかった。それは教養のある洗練された紳士の顔であった。

彼は英語を話さなかったが、義弟の通訳にすべてを任せており、一緒にお茶を飲むよう勧めてくれた。それは私が部屋に入るとすぐに用意されていたのだ。

彼が次々と箱を開いて、鮮やかな珠玉のような美術品を目の前に並べたとき、私は紛れもない名匠の前にいるのだということを、自ずと悟ったのである。

というのは、その作品はいずれも正真正銘の傑作揃いだったからである。

小さな花瓶のいくつかは、地色が黄であったが、クラウン・ダービー(英国ダービー産の高級磁器)のような色ではな

かった。その他の花瓶で、デザインも色も一見ローヤル・ウースター(英国ウースター産の高級磁器)を思わせるような花瓶があったが、それは本来的に日本のものであった。全体の色調が、矢車菊のような優美な青と、孔雀の羽のような光沢のある青の、小さな壺や小箱があった。地色が赤のものもあれば、オリーブのような緑色のものもあり、群青や濃い紫の地色をしたものがあった。

すべての作品が、私の今まで見た品物のどれよりも美しい模様で飾られていた。それぞれが彫刻を施した黒檀の台に載せてあり、台そのものもそれなりに優美であった。

私が譲嘆するのを見て、並河氏は他のもっと大きな品物も見せてくれた。けれども、巧緻を極めた最高に美しい作品を見ることができたのは、その数年後に何度目かの訪問をしたときのことだった。

それは昔の大名行列を描いた一対の花瓶で、皇室の御下命によって最も熟練した職人が一年以上も費やして作り上げたものであった。

大きな作品はどうしても小さな斑点や疵がつきやすいので、大型の全く完全な品物を作るのはほとんど不可能とされてきたが、ここでは大型のものも決して小さいものに劣らなかった。注意深く調べてみたが、それは今まで見たことがないほど完璧な出来栄えであった。

予期したように、どの品物も、前に私が見た品に比べるとはるかに高価であった。もしこれらがロンドンやニューヨークの高級品の店に展示されたら、同じ重さの金よりもずっと高い値がつけられるだろう。ついでのことではあるが、並河氏の工房で作られた品物が一般の店に出回ることはほとんどないという話である。

製作される品物の数が少ないので、彼の家を訪れる鑑定家や蒐集家の需要が、時として供給を上回る結果となる。現在は販売に見合う量が十分に賄い切れていない。問題の解決は、師匠の衣鉢を継いで、その製作方法と出来栄えを見習う弟子たちの肩にかかっている。

芸術の美と同様に、自然の美しさに囲まれているこの家の中に置かれていると、どの作品も蒐集家の戸棚に収まっているよりもはるかに見映えがした。だから、製作者の愛情深い庇護の下に、これほど適切な環境に置かれているこれらの品物をよそへ持ち出すのは、神聖冒濱に近い行為のように思えるのであった。

私が見たのは、長さが二十フィートくらいの塵一つない部屋で、床には畳が敷いてあり、その上に置いたいくつかの小さな机の上で、十人の職人が仕事をしていたが、自分の仕事に熱中していたので、我々が入っていっても、ほんの一瞬目を上げただけだった。

その近くにいた二人の職人は一生懸命に擦ったり磨いたりしていた。

これが並河氏の工房に働く人々の全員であった。この部屋で七宝の製作過程を、焼き付けを除いて全部見ることができた。

職人はそれぞれ小さい優美な花瓶や綺麗な壺に向かって仕事をしていたが、優雅な形をしたそれらの品物の上に、ゆっくり着実に美しい模様が描かれ、色付けされていくのであった。ある机の上では、青銅の花瓶に装飾的な模様を描いているところであったが、それは手本を写しているのではなく、職人が自分の頭の中にある模様を小さな筆と墨で、直接花瓶に描いているのだった。

他の机の上では、職人がほんのわずかな幅に平らに延ばした金の針金を小さく切っていた。その小さな金線を、模様の細かい部分の形に合わせて注意深く曲げて、模様の線の上に液状の接着剤をほんの少しつけて接着するのである。

もう一つの机では、金線の模様がちょうど出来上がったところだった。下地になる銀の花瓶の表面に、浮き出した金の線が美しく細工されていた。

並河氏の作品は、模様の美しさとともに、単色の下地に光沢があり清澄であることで名声を得ていた。だから、この金の飾りは表面のごく一部を覆っているだけであった。

その意匠は、桜の小枝が一、二本とその間に小鳥が舞っている構図であった。模様はそれだけで、後はエナメルを入れるばかりになったこの状態でも、十分美しく見えた。

というのは、小鳥の小さな翼や胸の羽一枚一枚が細かく細工され、桜の花弁や萼や花芯の一つ一つが色のエナメルを塗るために金の網目細工で丁寧に区切られていたからである。

七宝の名はこの間仕切りに由来する。

他の机ではエナメルが施されているところだった。小さな間仕切りにさまざまな色の鉱物の粉で作った釉薬を充填するのだが、その釉薬は融剤を混ぜて炉で熱すると溶けてガラス状のエナメルとなり、好みの色を出すことができる。

最高級の七宝になると、最初は間仕切りに少し釉薬を入れて炉で熱する。それからもう一度釉薬をかけて、また炉に入れる。最後の仕上げをする前に、七回これを繰り返すのだが、この最後の作業が一番重要なのである。

仕上げの釉薬のかけ方で、それまでの作業の結果が左右されるだけでなく、表面の見かけに大いに影響を与える。表面が疵一つなく光沢があるか、小さな穴があいているかは、この最後の仕上げ次第で決まってくる。

最後の充填と焼き付けを終わった段階では、花瓶の表面はまだ見た目が粗っぽい。それは最後の焼き付けのときに溶解したエナメルが周りの線より高く盛り上がっているためである。この段階では、その下にどんなに優美で華麗なものが隠されているかは、ほとんど見当がつかないほどである。

それは宝石の加工職人が磨きをかける前の原石のようなものである。

花瓶の表面を同じ厚さにするために、軽石と水で何日間も、時によっては何週間も磨かねばならない。これは全部手作業で、大変な技術と注意力を必要とする。というのは、ある個所が他の個所より薄く研磨されると、磨かれた表面に反射される光が均一でなくなるので、今までの作業が水の泡となるからである。旋盤は日本でもよく知られているが、この場合は旋盤を用いない。

この工程で用いられる唯一の方法は、手で静かに擦るだけである。研磨の工程は非常に長い時間かかるので、一時間経ったぐらいでは、見た目には全く変わらないほどである。表面が日に日に綺麗になってゆくと、使われる軽石も柔らかい滑らかな品質のものになり、最後に使われるものは絹のように柔らかな軽石である。軽石の次には、表面の滑らかな石と角で磨かれ、最後の仕上げには弁柄を使うが、それによってレンズのような光沢が得られるからである。

並河氏は製作品の毎日の進行過程を注意深く見ているが、最後にそれを細かく調べて、何の欠点もなく自分の名前を入れるにふさわしいと判断したものを、銀細工師に回して、底の周りの縁と口のヘりを加工させ、底に銘板をつけさせる。

それが戻ってくると絹の布と黄色い薄手の綿布に包み、家の戸棚にしまっておく。

しかし、目の利く旅行者がすぐにそれを買っていくので、長い間そこに留まっていることは少ない。

現在、世界各地で珍重されている数の比類なき七宝の名品を生み出したこの部屋の、どこを見回しても一点の染みも汚れも見当たらないほど、作業は清潔を保たれていた。部屋の片側には七宝の土台として使う青銅や銀の花瓶をしまう棚があり、それと一緒に各種の色の鉱物の粉末を入れた瓶が何百となく並んでいた。

それらはエナメルの原料であった。これらの粉末は溶解した状態になると全く色が変わってしまうので、長年根気強く研究して、初めて詳しい知識が得られるのである。

職人は自分の望む色を的確に知っているだけでなく、ほとんど正反対の色の粉末を使って、結局望みどおりの色を出す方法を心得ていなければならない。

だから、最高の技術と知識を有していないと色の混同を避けるのが難しい。戸棚の上に掛けた外国風の掛け時計が時を刻んでいたが、これらの芸術作品が世に出るまでには長い時日がかかるので、何日も、あるいは何年も時計は時を刻み続けるであろう。

仕事場を見学してから、焼き付けの部屋に案内されたが、ここも同じように極端なほど清潔で整然としていた。小さい炉が二つあり、部屋の真ん中の煉瓦敷きの床の上に、どんな寸法の炉でも耐火煉瓦で自由に作られるようになっていた。

内側の耐火箱の周りに並べられた煉瓦は、炭火を入れる余地を数インチ残して積んであった。

並河氏自身が焼き付けの作業を担当していた。恐らくこれが全工程の中でも一番重要な仕事であり、それ以前のすべての作業が成功するか失敗するかの鍵を握る作業であった。

熱の温度を間違えればそれで全部駄目になってしまう。溶融の過程がエナメルの正しい定着と色彩を左右するのみならず、最高の七宝の生命とでもいうべき、光沢が豊かで表面に空気穴がない仕上がりのためには、この過程が非常に重大な影響を持っているのだ。

並河氏の話では、ある種の色は他の色に比べて、溶かしてうまく色を出すのが非常に難しいのだそうで、また小さな間仕切りよりも大きな単色の表面のほうがずっと技術を要するとのことであった。

彼はある優美な作品を見せてくれたが、それは黄色い下地の上に秋の紅に染まった楓の木がデザインされていた。色の変化する度合いや細かく描かれた葉の葉脈には微妙な美しさがあり、最後の焼き付けと研磨に備えて、何日間も手をかけてきたものであった。

確かにそれは戸棚に飾るにふさわしい作品となるのではないかと思われた。

しかし、軽石で表面を磨いて、細部が日に日に明らかになってくると、見苦しい傷跡が見え始め、それは炉の試練に耐えるのは難しいと分かってきた。果たして炉から出してみると、美しくなるどころか、救いようのないほど損なわれていた。七宝の最高の作品が極めて高価なのは、このためである。最後に出来上がった完全な作品を購入する者は、それを作るまでの過程で、廃棄された他の作品の分まで合わせて支払わなければならないのだ。

風采も物腰も穏やかなこの芸術家並河氏が、七宝の製作を始めたのは、約三十年前のことで、自分の熱中した七宝の製作技術において第一人者になりたいという野心を常に抱いていたのである。彼の初期の作品を見ると、彼がこの三十年間にどれだけ大きな進歩を成し遂げたかが初めて分かる。

彼の工房で働く職人は、誰でも主人の考え方をよく飲み込んでいた。並河氏自身はデザインと焼き付け以外はほとんど直接手を下さなかったが、作品の出来上がる全工程で、それぞれの品物の出来具合を厳しく監督し、もし何か気に入らない点があれば、違反者の不注意を鋭く責めるのだった。

私がその後に彼の工房を訪れたとき、彼はある職人の手になる花瓶の表面に、ほんの微細な点であったが、気に入らないところを見つけた。彼の表情はとたんに厳しくなった。その男の不注意を厳しく非難したときの彼の様子には、自分の意志を明確にして、それに皆を従わせようとする気持ちがはっきりと表れていた。

工房の職人たちは決められた時間で仕事をするのでなく、心が鼓舞されて仕事したい気持ちになったときだけ働くことになっていた。しかし、実際には、それはほとんど一日中毎日のことであったから、私が十数回この仕事場を訪れた間に、机が空いているのを見たことはごく稀であった。

並河氏は現代における日本の最高の七宝師と言えるだろう。日本の技術は中国よりはるかに勝れているから、彼の名前の入った作品を持っている者は、それが現在手に入る最高の品を証拠づけるものとして、安心して喜んでよい。

私がその日に会った温雅な紳士の許を辞して、ただ簡単に「七宝師Y・並河」と記して門に掲げた謙虚な標札の前を再び通り過ぎたときに思ったのは、これこそ真の天才の気どりのない謙遜を、典型的に表したものだということであった。

そして、さらに思ったのは、彼とその弟子たちの作品の中にあれほど忠実に自然の優雅さが反映しているのは、彼らの自然を愛する温かい心に基づくものにちが

いないということであった。】

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