透明釉の誕生。

梶常吉の七宝技法は林庄五郎に伝えられ、それからさらに塚本貝助に伝えられました。

その後、貝助は東京の亀戸に設立されたアーレンス商会の七宝工場の工場長として招かれ、そこでドイツ人科学者ワグネルと共に七宝釉薬の改良に尽力し、それまでの泥釉(不透明釉)に替わる透明釉を開発し、七宝に鮮明な色彩をあたえました。

七宝が今日のように光沢のある透明釉薬を使った、華やかなものとなったのは、これから以後の事です。この透明釉は日本の七宝の美しさを飛躍的に高め、国際的にも大変な評価を得ることになりました。

ワグネルは、科学者として七宝釉薬の改良に努めたのみならず、日本のすぐれた工芸の育成に情熱を注ぎ、彼を顧問としてその指導のもとに、日本はこの後、万国博覧会に参加するようになります

ワグネルは、日本の工芸は世界でも非常に優れた美術品である、日本の工芸家はいたずらに量産に走ることなくその特質を伸長させなければならないと考えていたようです。

国によって雇われた大半の外人教師は任期が終わるとさっさと本国に帰ってしまったのに比べ、ワグネルは結局日本に踏みとどまり、最後まで日本の工芸のため尽力し、日本で没したそうです。

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